tossy

アヒルが、ガーガー

通奏低音

学生時代の 6 年間、僕は時期を隔てながら二人の友人と、別々にルームシェアをして暮らしていた。今は一人暮らしだが、あのときの暮らしにあった「すぐ隣の部屋に、他人の生活が息づいている」という感覚が、とても嬉しかったことを思い出した。

家族ではない。友人ではあるが、異なる環境で育ち、異なる分野に長けている他人。そういった人が、ほんのすぐ隣に居るということは、楽しさや煩わしさを超えて、なんというか、安心を僕に与えてくれた。

僕の師匠は、ネットワーク社会とは「露出と覗き」の構造を有していると語っている。リンクを開けば、自分が主だって見ている世界のすぐ隣に、まったく異なる価値観を有した別の世界が広がっている。また翻って自分も、空間上で何かを表現するという行動は、誰かから覗かれるという可能性をそもそも含有している。そういった現代の環境は、恐ろしさも感じるけれど、でもやっぱり素敵だと僕は思う。

ルームシェアは、その感覚に似ている。隣のドアをノックすれば、異なる価値観で彩られた生活空間を体感することができる。そうして彼の部屋に立ち入るたびに「ああ、展望というのは、自分に縛られすぎない限り迎え入れてくれるものだ」と、安心してしまう。

でも、その安心を支えてくれているのは、きっと「僕と彼の間に、同じ通奏低音が鳴っている」と独善的に思えているからなのだろう。その、同じ通奏低音の上で、異なる音色を響かせていると思えるからこそ、心地良さを見つけられるのではないか。

いずれにせよ、ひとりでは何も見つからないし、見当たらない。自明な課題を抱えつつも、些細な一歩から踏み出すことしか、成長(ついに使ってみた、このマジックワード!)の道筋は見えない。

2009-05-06 03:24:30