tossy

アヒルが、ガーガー

それでも12月はやってくる

自分が書いたエントリーや文章を読み返すことをあまりしないが、ここ数日何故か読み返していて、ぼんやりと何か書きたいなと思って久々に編集画面を開いている。仕事の真っ最中だが、気が向いたんやからまあええやろ、という気持ちで。

昨年の今頃に書いたもの、一昨年の今頃のもの。振り返るとそれぞれ自分の状態も違っていて、そもそも過去2年は仕事すらしていなくて、あまり時間が経っているというわけでもないのに、今の自分と比較して不思議な気分になる。

どちらの自分が(無職の自分/今の一応は仕事している自分)本来の自分らしいかと自問すると、判断に迷うところはあるものの、職場が自宅になり、大げさな目標や期待をなるべく抱かないようにして、とにかくその日その日を乗り越えることに徹する今の自分は、つまり「仕事はしているが無理しすぎていない自分」という姿に、少しずつ近づき始められているんじゃないかという感覚が、ぼんやりと持てるようになりつつある、と思っている。

まだヨチヨチ歩きレベルという自覚を捨てたくないので「やったやん、無理なく生きられる感覚を獲得できそうやん」と言い切るのは自信がないし、一寸先は闇というか、いきなりガラッとそういう感覚が減衰する懸念もあるとは思うので、あくまでも「持てつつあるのでは?」程度ではある。でもこれは、やっぱり今までにはなかった感覚や、とも思う。

現実感を伴って、そうした「求めていた感覚」を持てつつあるように思う一方で、そのことへ自信を持てないのにはいくつか理由が思い当たる。

  • まず感覚の発現が今年に入ってからのことであり、まだ継続期間が短いこと。無職や無理が優勢やった期間のほうが圧倒的に長いわけで、そう容易く「これで当面は行けるんちゃうか?」とは思いづらい。
  • フルリモートという環境、コロナ禍の影響で出社や移動が制限されている状況など、あくまでも現状のこれは環境依存的な感覚に過ぎないのではないかという疑念(実際これは事実やから疑いですらないんやけど)が払拭できないこと。じゃあオフィスで働けますか?朝、電車に乗れますか?という質問には、むしろ日に日に「やりたくないよもう」という気持ちが先行してしまっている。
  • 人生でほぼ初めて貯金があること。昨年の今頃、一昨年の今頃、あんなにお金がなくて困っていたのに、何故か今は(同属性の同世代からするとずっと少ないやろうけど)自分史上初と言ってもいい貯蓄がある。結局お金の不安が減ると「まあ、すぐに死ぬことはないやろ」みたいに自然と思えてくるという話なだけでは、という。

継続期間の短さはともかく、集約すると「求めていた感覚を得られつつあるように思うが、あくまでも環境や状況がそれを許してくれているからに過ぎず、自分にとって都合が良い状態が変化したら、結局はまた自分の生活からこの感覚もこぼれ落ちていってしまう程度のものではないか」という疑念が尽きない。

しかし、環境依存的ではない実感というのも、文字にしてみると違和感があるのも事実。社会や文化や収入、人間関係や働き方や仕事で感じる摩擦の大小、体調や気候。それらと切り離して持てる実感があるなら、多分それはカルトとか陰謀論とかの閉じた思想によるものでしかない。要は程度の問題であり、その中で自分の能力や意欲の範囲で調整できる状態を、なるべく保てるかどうかが大事なはず。

この内的議論をステップアップするなら「今ちょっとずつ持ち始められつつあるような大切にしていきたい感覚を、多少の環境変化があっても、自分はどうやら一定は保てそうだ」という感覚を、自分の中に生活を営む中で育てていけるかどうか、になるか。

現実味があって、でも大切にしていきたい、失いたくない感覚だからこそ、どうしたら少しずつでも育てていけるのか。それを無菌室とかではなく、実際の社会や仕事と相まみえながら、自分の中で増幅していけるか。ここに僕の今年の、おそらく来年以降の、戦いのテーマがあるんじゃないかという気がしてくる。してくる、というか、これを書いていてしてきた、が正しいか。

多分これまでにも「この感覚で当面はやっていけそうだ」を得たような気分になった瞬間はあった。でも、それを自分のせいで早々に失ってしまって、それを何回か繰り返して、だから自信が持てていない。この失敗のループによって自信がないことについては、自信を持って「そうだ」と言える。では何故、今の感覚については「これまでのそれらとちょっと違うんじゃないか……?」という気になっているのか、その理由らしきものもいくつか列挙してみたい。

  • 仕事や生活をしながらも、十分にサボっているから。寝過ごしたり、食べ過ぎたり、次の日に仕事あるのに眠れずに朝方でもお酒を飲んでいたり。これだけ手を抜いたりしながら、でも仕事できているっぽいし、そしたらもうそれでいいんじゃないかという。
  • 長年お世話になっているカウンセラーさんが、ひとつの達成を得たのではないか?という前提で話をすることが増えているから。カウンセラーさんの目線からして「やはりこれまでと今のあなたは違うし、その違いにご自身で気づいていなくても、そのことを観察してあなたに伝えるのが私の仕事だから」という発言が何度もあると、そう思ってもええのかなぁ……という気になってくる。
  • 内向き:無気力な自分/外向き:躁的防衛をする自分という線引きをしながら他者や社会と関わろうとすることを諦めつつある気持ちが増えてきている感じがあるから。そりゃあ今でも仕事の席であたふたすることはあるけれど、でも「そういうの、もうやめたいな、頑張らないと仕事したりコミュニケーションしたりできないのって、やっぱり違うよな」という。でもこれもリモートワークなどで対面の機会が減っているから、こんなふうに思えてくるだけかもしれないし、単に年齢の問題かもしれないし、半信半疑ではあるけれども。

自信が持てない理由は環境側の話で、大切にしたい理由は自分の話。答えはないけど、列挙した内容はどちらも今の自分を考える上で役立つようには思う。多分また来年の自分がこのエントリーを読むと、その視点からの種明かしがあるんやろうし。疑念/事実として分けて書いているが、でも互いは常に関わり合っているし、相互作用によって内容はまた変わっていくのも事実。

ひとつだけ確かなのは、来年の自分は、今よりも良いか悪いかは分からないけれど、変化しているということだけは間違いないということ。それを期待して待てるか、ワクワクできるか。少なくとも今年の自分は「なんか良いほうに変化すればいいな」という気持ちは持てている。このこと自体は、やっぱり喜んであげたいなと思う。

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適応度ランドスケープ(Fitness Landscapes)(Gavrilets, 2010の図3.3)

(a)のように生き物の適応度は環境条件によって変化します。(b) のような単一の基準で適応度が決まると考えるのは「神話」にしか過ぎません。

この適応度ランドスケープの図を、我われヒトに当てはめてみるとどうなるでしょうか。人びとが相争う現実の競争社会では、ひとつの基準で測った「成果」とか「達成度」とかいったものが尊ばれるのでしょう。しかし、我われが実感する社会は、ひとつの基準だけで生活しているわけではありません。仕事だけでなく、人には趣味やくつろぎの時間が必要です。一人の個人の中でも複数の基準が存在するのですから、多くの人がいる場合にはなおさらです。人間にはいろいろな才能があります。それが人間の多様性というものです。

色んな/矛盾するような自分が、同じ時間や場所に同時に存在して良いし、そこを自分の欲求に基づいて行き来できる状態に近いところで、可能なら生活をしていたい、ということかなあ。自由と遊びの確保というテーマは、相変わらず続いていきそうではある。