tossy

アヒルが、ガーガー

ディスコの神様

「ファッションが好き」と言っているくせに、着ている服は平気で 5, 6 年と着ているものばかり。給料が入るようになったんやし、高いものじゃなくていいから、とりあえず「新しい服」を買おうと、定期で行ける六本木へ出向いた日曜。

高いものも、手に入れやすい価格のものも、一応ザーッと見て、試着してみて、今日は普段着を買いに来たのだと思い直して、ZARAユニクロで上下購入して、帰ってきた。

「あー、これは 09 の SS で Givenchy がやってたやつや」とか「いやいや、これって kolor の丸パクリやん」とか。あるいは「あぁ、kolor そういうことやっちゃうんや…」とか「ようやく Raf Simonsadidas はいい感じに仕上がってきたなぁ」とか。僕くらいの情報収集量でも、そういう「事情」を感じてしまうので、一応そこは意識的にかい潜りながら「これならええやろ」というものを買って帰ってきた。

思えば買い物目的に六本木に行くのも初めてやったし、そういう気持ちで六本木に出向けたのも初めてやった。欲しい物なんていくらでもある、やけど、もし自分に十分なお金があっても、それらをすべて買おうとは思わないと思う。何というか、持てる範囲を拡張することは大切なんやけど、それと同じかそれ以上に、持てる範囲でどれだけで思考を巡らせられるのかという方が、きっと大切にしたいことなんやろうな、と思う。

なりたい姿というのは、現状に応じてどんな風にも変わる。誰かが実現した「なりたかった姿」が僕にとってはどうしようもなくダサかったりするし、逆に僕が「なりたかった姿」が他の人にはどうしようもなくダサかったりもする。

それを踏まえた上で、何を・誰を・どれを、カッコいいと言うのか。おそらくそこで重要なのは「その言明を自分自身で引き受ける」ということ以上に「どれだけそのカッコ良さを自分が信じきれるか」なのやろう。古くても新しくても良いし、ダサくてもキメていても良い。どっちでも良いから、どれだけそこに思い入れを持っているのか、そこを語らなきゃ、表現しなきゃいけないんやろう。

多様な中に、一様でしかない発想を持ち出す。そこからじゃないと、残念ながら何も変わらない。でもそれは「残念」なことではなく、自分がその多様性の一部を担えるようになったという、祝福とも言えるのかも。なーんて。