tossy

アヒルが、ガーガー

やりたくないこと

冷え込みが一層厳しくなり、本田圭佑がイタリアで新たな一歩を踏み出し、人々は三連休に年始最後の気分を味わっている。僕はと言えば、変わらず褒められたものではないけれど、とにかく大崩れしないようにと日々を過ごしている。

以前ブログを書いていたときは大体酔っ払っているときばかりやったけれど、今は家の外でコーヒーを飲みながら書いていることが多い。喋ること、書くことは、やっぱり考えを整理するのに良い。また書き残しておくと、あとで「あのときの自分がこう計画していたんやから」と、崩れない理由にもなり得る。

ふと観返した、かもめ食堂の中で出てくるセリフ。

「やりたくないことはやらないだけなんです」

これから僕がどれくらい生きていくのか分からないけれど、ここで言う「やりたくないこと」とは自分にとって何を意味するのか、どうすればそれを少しでも減らせる状況・心境で居られるのかは、早めに気づいておくべきなのかもしれない。

もちろん「やりたくないこと」はゼロにはならない。むしろ、生きれば生きるほど(背負えば背負うほど、抱えれば抱えるほど)増えてくるように思う。だからこそ、今のうちに少なくとも、やりたくないこととやってもいいことの線引がどのあたりにあるのかくらいは、分かっておいた方が良いと思うのだ。

ここまで書いた議論において欠落しているのは、やりたくないことが自分の中で変わり得ること・やりたくないことを気にしなくなるくらい自分が成長すること・やりたくないことが他者を巻き込んでいる場合、その相手によって如何様にも変わること。かしら。それでもまぁ、人間そんな急には変われない。やりたくないことはやらない、うん、シンプルそうに聞こえて良いじゃないか。

やりたくないことはやらないようにしていたら、結果残ったことがどうやら、やりたいことと言って良さそうなことだった。今のところ、良い結論の導き方に見える。