tossy

アヒルが、ガーガー

セオリー

物事の優先順位をどうして見誤ってしまうのか、といつも自分を疎み、責めている。そこでふと自分から目を離し、知人や友人のことを思うと、明らかに「自分の優先順位」とは違う(あるいは、自分では到底できない順位付けを感じる)セオリーで動いているのを見たときに、僕はその人について「おもろいなぁ」「その偏り加減がこの人の魅力やなぁ」と感じることを思い出す。己のセオリーを己は疎んでも、ほかの誰かにとってアピールになっているのかもしれない。ダメであることは、必ずしも「悪い・良くない」とは同義ではない、と今は思うことにしよう。

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「俯瞰する視点を獲得しなさい」と言われ「あぁ、これは他人をサンプリングせよということなんやな」という意味で一応納得した。でも裏返せば(至極当たり前やけど)自分も誰かにとっての「サンプル」であるわけだ。僕を知る誰かに「ああいうやつが居てね、クズなんやけど、まぁ面白くなくはないよ」という程度の存在でいられれば御の字やし、そんなの「どうにでも思って頂戴」なのだから、自分で「サンプルとしての価値」を考えすぎるなんていうことは、やっぱりナンセンスなのだ。

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『君が思っているほど、世の中は君に興味がない』と言う姉の言葉は、墓場まで携えなきゃいけない至言。自分がナイーブで、カッコつけで、他人の目を気にしていることは、今に始まったことじゃないとすぐ思い出せる。

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やれることからやろう。喜んでもらえる親孝行や、お世話になっている友人に元気な姿を見せることや、好きな女の子を見つけて思いを伝えることは、今の僕にはまだ少し遠いこと。でも仕事して、自分の成すべきことにまず挑むことは、やれることのうちのひとつなんじゃないか。どうだろう、自分。