tossy

アヒルが、ガーガー

ディスコミュニケーション

好不調の波はまだあるものの、最近自分が話している内容が、だいぶ腑に落ちながら発せられているという実感を得ることができつつある。

これまでを振り返ると、特に自身について表明しなあかんときに「頭では分かっているけれど行動に移せないこと」や「そう言うのが、場に即しているだろうと思ってのこと」を敢えて選んで話していることが多かった。なんというか、自分の中にある「取り繕っている、ええかっこしい」が、勝手に口を使っているという感じ。

でも実際のところ、そういうのって勝手に自分が「現実的じゃないけどこっちの方が正しそう」とか「この場にはこっちの方が良さげ」と思っているだけで、ある種話す前から結論ありきで考えているというディスコミュニケーション性が強すぎるとも言えると思う。レスポンスを期待せずに話している、というディスコミュニケーション

もちろん、展開や論調をこういう方向に持って行きたいという欲は、誰しもあって当たり前。でも、自分が放った言葉や仕草で場がどう変わるか分からへんけど、そこはまぁ言うだけ言ってみようか。自分の領域外にある反応があるかもしれないことを含め、レスポンスに期待しようよ、という気持ちが少しずつ増えてきている気がする。

つまりはそれは、取り繕うことよりもコミュニケーションを取ることを、少しずつ重視し始められているということ。言葉を換えれば、期待したい自分がええかっこしいの自分を、上回ってきているということ。

あるいは、どうにも変われない(取り繕いきれない)自分の弱さについてはもう諦めつつあるということなのかな。でもこの「弱さを諦める」とは、つまり「弱さを引き受ける」ということになるから、今の自分にとっては良いことなのだ、と思う。

などと書いている事柄が、取り繕う自分から発せられていないことを願いたい。もう、そういうのは疲れたのだ、ホント。