ヒーロー像
我慢しなきゃいけないのが、そもそもおかしいんだよ。痛いときは「痛い」でいいんだ。
阿良々木くんが言うように、きっと多くの人が当たり前にそうしているように。辛いときは「辛い」でいいのだろう。自分が、そうであると認められることが、逆に言えば「そうではないと取り繕うことを止める」ことが必要なのだ。
自分にはどうも「人の態度をそのとおり受け止めてしまいがち」なところがある。他者と接していると、大抵の場合、語られすぎているということはないし、弱みや苦しみを表に出し合っているということもないし、身を案じ合っているということもない。でもそれは、自分も含めて皆、そのように取り繕っているからのだ、あったりまえに。問題はだからといって、自分の内面も常にそうしておかなければならないと、不必要な義務感を持っているところにある。
辛いときはあるし、苦しいときはある。それを日常的に「存在していない」と思い込んで対処しようとしているのが問題なのだ。あるべきものを無きに等しく扱えるなど、できるはずがない。
それを「あたかも存在していないように」無理した結果、定期的に潰れてしまう。社会人として、と言うよりも、人間として落第だ、そんなもん。
というように強く反省する僕からすると、イチローや中田英寿が描いてきたヒーロー像とは違う、より不完全なヒーロー像(さながらダークナイトのような)だからこそ、その魅力が大衆的に受け入れられているのが、本田圭佑だと思う。イチローや中田英寿は、鍛錬によって弱さを「克服」したヒーロー像。本田圭佑は弱さを「了解」しているからこそ鍛錬を惜しまないヒーロー像。
自らの内面にどうしようもなく弱い部分や醜い箇所がある。だけど、それも含めて自分であるとするならば、それらを引き受けてこそ立ち上がれる。克服とは違って最後まで解消されない問題を抱えている訳だから、恐れは最後までついて回ってくる。だからこそ最後まで戦い続けられる。
井戸から彼が這い上がれたのは、命綱を外すことで「死の恐怖」を引き受けられたから。そう格好良くは決してないけれど、自分の弱さをもっと引き受けないと。